東京散歩・東京散策
都選定歴史的建造物
20 東京都慰霊堂

所在地    墨田区横網 二丁目3番25号

建 物    建設年 昭和 5 (1930)
設計者    設計者 伊東忠太

構造・規模  木造一部 SRC造 3階

最寄駅    ・JR 総武線 両国駅
       ・都営大江戸線 両国駅

概 要    東京の防災シンボル。仏教寺院風の三重の塔は地域のランドマーク。

東京都慰霊堂・震災記堂  由来記

 大正十二年九月一日、突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、
五万八千余人の市民は、業火の犠牲となった。
 このうち最も惨禍をきわめたのは、当時横網町公園として工事中の陸軍被服厰跡であ
った。世論は、再びかかる惨禍のないことを祈念し、慰霊記念堂を建設することになり
官民協力して、広く浄財を募り、伊東忠太等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を
竣工し、東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に
対応する警告記念として、また公共慰霊の道場として設計された。三重塔は高さ百三十
五尺(約四十一メートル)、基部は納骨堂として五万八千余人の霊を奉祀し約二百坪の
講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名法等が祭られてある。
 以来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し、「備えよつねに」と、相戒めたのであ
ったが、はからずも、昭和十九、二十年、東京は、空前の空襲により連日爆撃を受け数
百万の家屋財宝は焼失し、十万をこえる人々は、その犠牲となり大正震災に幾倍する惨
状に再び見まわれました。
 戦禍の最もはげしかったのは同二十年三月十日であった。江東方面はもとより全都各
地にわったて惨害をこうむり約七万七余人を失った。当時殉難者は公園その他百三十ヶ
所に仮埋葬されたが同二十三より逐次改葬火葬し、この堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉
安し、同二十六年春、戦災者整葬事業を完了したので、東京都慰霊堂と改め永く諸霊を
奉安することになった。
 横網公園敷地は約6,000坪、慰霊堂の建坪377坪余、境内には東京復興記念中
華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を日本風林泉を記念した庭園、
及び大火にも耐え蘇生したイチョウの木を称えた大並木が特に植えられている。

 この弔霊鐘は、関東大震災により遭難死した死者追悼のため、中国仏教徒の寄贈によるものである。
 震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念
仏法要が営なまれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促した。
 また各方面の回向が終わったのちは、「幽冥鐘一隻を鋳造して、これを日本の災区に送って長年に
亘って撃撞し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言した。
 その後災情が日を経るに従い甚大であることが明らかになったので仏教普済日災会の代表二名が来日
し、京浜両地区の慰問を行い、これと同時に我が国の外務大臣並びに仏教連合会に梵鐘の寄贈を申し
出たものである。
 その後、震災記念堂の計画確定によりこの鐘を横網町公園に安置することになった。
 なお、このことについては上海の王一亭氏の特段の尽力があった。
 この記念像は、大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東地方に発生した大地震により
不幸にして災害に遭い死亡した小学校児童約五千人の死を悼み、この不遇の霊を慰めかつ、忌
わしむることと、永く当時を追憶し、その冥福を祈るため、当時の学校長等が中心となり、忌
魂碑建立を企画し、第五回忌辰に際しこれを発表した。それに共鳴るする者が十八万二千二十
七名に及び、その醵金は、一万四千六十六円四十七銭にも達した。
 その基金で、彫刻家小倉右一郎氏に制作を委託し、完成後当時の財団法人東京震災記念事業
協会に寄付し、その後東京都に引き継がれたものである。
 なお、この悲しみの群像は、昭和十九年第二次世界大戦たけなわのころ、戦力増強の一助と
して、金属回収の禍いを受け撤去され、台座だけがむなしく遺されていたが、昭和三十六年に
当初の作者、小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一の両氏によって、往時の群像
を模して、再建されたものである。
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